1. 問題の所在

近年、報道や研究の現場では「被災者は」「障害者は」といった大きな主語を避け、「主語を小さく」して語ることの重要性が指摘されている。これは、個人の多様な経験を一括りにせず、当事者の声を勝手に代弁しないという配慮に基づいている。

しかし、少数派の立場から見ると、問題を個人の事情に還元しすぎることで、「かわいそうな一個人の話」として処理され、構造的な社会問題として扱われなくなる危険がある。ある人の困難が社会制度や権力構造に起因するものであっても、個別のエピソードとして消費されれば、制度改革への動機は生まれない。

本稿では、この「個別化」と「構造化」の緊張関係を、三つの理論的枠組みから検討し、カテゴリーをどのように扱うべきかを考察する。

  1. 戦略的本質主義

ポストコロニアル理論家のガヤトリ・スピヴァクは、「戦略的本質主義(strategic essentialism)」という概念を提唱した。これは、「女性」「サバルタン」といったカテゴリーが本質的に存在するわけではなく社会的に構築されたものであることを認識しつつも、政治的な目的のためにあえてそれを使用することには意味があるという議論である。

たとえば、「女性の権利」を主張するとき、「女性」という集団が均質であるかのように語ることには問題がある。しかし、制度的な交渉の場では、カテゴリーを用いなければ政治的な力を持つことができない。スピヴァクの議論は、この戦略的な使用と本質主義への批判を両立させようとするものだった。

ただし、スピヴァク自身は後にこの概念が乱用されることへの懸念から距離を置いた。戦略的に使うはずのカテゴリーが、いつのまにか本質的なものとして固定化されてしまう危険があるからである。

  1. 交差性理論

法学者のキンバリー・クレンショーは、「交差性(intersectionality)」という概念を提唱した。これは、「黒人」「女性」といった単一のカテゴリーでは、抑圧の構造を十分に捉えられないことを示すものである。

クレンショーが指摘したのは、黒人女性が経験する差別は、「黒人への差別」と「女性への差別」の単純な足し算ではないということだった。両方のカテゴリーに属することで生じる固有の経験がある。したがって、単一のカテゴリーで人々を括ることには暴力性がある。

しかし重要なのは、クレンショーがカテゴリーによる構造分析自体を放棄していないことである。カテゴリー内部の多様性を認識しながらも、構造を語る方法を模索している。これは、個別化と構造化の緊張を解消するのではなく、その緊張の中で思考し続けることを求める立場である。

  1. ICFの統合モデル

世界保健機関(WHO)が提唱した国際生活機能分類(ICF)は、障害を個人の身体的特性ではなく、活動・参加と環境因子の相互作用として捉える「統合モデル」を採用している。これは従来の「医学モデル」(障害は個人の問題)と「社会モデル」(障害は社会の障壁の問題)を統合しようとするものである。

この視点から見ると、発達障害などにおける「グレーゾーン」といった区分も、脳の本質的な差異というよりは、支援を配分するために社会制度が引いた線だと理解できる。カテゴリーは発見されるものではなく、特定の目的のために構成されるものである。

ICFのモデルは、個人の機能と社会環境の両方を視野に入れることで、「個人の問題か、社会の問題か」という二項対立を超えようとしている。

  1. 技術による迂回の可能性

近年の開発ツールの発展は、カテゴリーの政治を迂回する新たな可能性を開いている。従来、「私はこれが苦手です」と表明することはできても、それに対する解決策を個人で実装することは困難だった。しかし、コーディングの民主化により、「私は何者か」というアイデンティティの承認を待たずに、機能的な問題を直接解決することが可能になりつつある。

これは、カテゴリーによる認定(診断や制度的承認)を経由せずに、個別のニーズに対応できることを意味する。ただし、この個人的な解決が「構造的問題を不可視化する」方向に働くリスクと、「個人のエンパワメント」として働く可能性の両方を考慮する必要がある。

  1. 結論

「主語を小さく」という配慮と、構造的問題の認識は、どちらか一方を選ぶものではない。スピヴァクが示したように、カテゴリーは構築物であることを認識しつつ、政治的有効性のために戦略的に使用する態度が求められる。クレンショーが示したように、カテゴリー内部の多様性を認識しながらも、構造分析を放棄しない姿勢が必要である。

重要なのは、誰が、どのような文脈で、どのような目的でカテゴリーを使用するかによって、その正当性と効果が変わるということである。当事者が連帯のために使う場合と、研究者が分析のために使う場合と、ジャーナリストが報道のために使う場合では、それぞれ異なる責任と限界がある。

カテゴリーを本質化することなく、しかしその政治的有効性を認識しながら使用すること。この緊張を解消せずに保ち続けることが、少数派の経験を語る際に求められる姿勢ではないだろうか。

参考文献

潤-わたしは分断を許さない